人の熱など知らなかった。触れた事も無かったし、触れたいと、求めた事だって無かったのだ。今までもそうだったし、此れからもきっとそうだと思っていた。――そう、二人とも。




 目覚めると、漸く見慣れ始めたその姿が、無かった。
 長く細かな装飾の施された法衣、月の耀きにも似たその髪。そんな、唯在るだけで目を惹くその男が、視界に捉えられなかった。いつもならば彼は少し離れた場所で毛布に包まり、己よりもやや長い惰眠を貪っている筈なのに。
 黒い暗殺者は、困惑した。何故こんな想いを得たのかも判らない。けれど、ひどい焦燥を感じた。咽喉が嗄れるような、そんな、空虚な感覚。この感情の意味が理解出来ず不思議で堪らないのに、それなのに、攫めないもどかしさ。歯痒くて、何か、自身からぽっかりと抜け落ちた気がした。それが何なのかさえ、判らないのに。
 彼は当惑して、未だ薄ら白い空へと手を伸ばした。それで何かが攫める訳でも、何でもない。けれど、彼は雲をも掴むように、手を空へと伸ばし、ただぼんやりとその先を見詰めていた。

 そもそも、二人の関係からして不可解だった。
 暗殺者が魔術師を狙い、魔術師は暗殺者に勝利した。本来ならばそこで話は終わり、正義が勝利し悪役は見事散る。それが、――拾われた。命を拾われ、生き延びさせられた。まさか延命するなどとは思いもしなかったのに、魔術師は暗殺者の手を取り、暗殺者はそれに従った。何故己が彼に従ったのかは良く判らないが、唯、彼に何か惹かれるものを感じた、それだけ。
 ほぼ直感にも近い感覚で彼と共に過ごし、早半月。自身は依頼により名を知っているが、相手には名前を教えぬ侭、寝食を共にして。それで得たものは、果たして何か在ったのだろうか。言うなれば、勘が鈍ってしまったと言う事か。
 その手には疎い己でさえとても奇麗だと思う相貌をしているというのに豪い皮肉屋で、常に人を馬鹿にしたような――否、馬鹿にしているその彼。料理が不味いというのなら自分で作れば良いのに、己に作らせては揶揄ってばかり。それでも全て残さず平らげていた事は、賞賛すべきことかも知れない。何せ、確かに暗殺者は料理が下手だったから。
 何だかんだと言いながら、彼らは彼らにとって、長く過ごしていた。
 他人と共に過ごす事など知らず、常に一人であることに慣れ切っていた生活。信じるものは己の力のみで、独りきりなど、当たり前のことだったから。
 けれど、彼らは共に過ごした。――それが、暗殺者の中で渦巻いている。ぐるぐると何とも言えない感情が蟠り、言葉に出来ない想いがあった。何故、消えてしまったのか、とか、何故、そんな事を己が気にしているのか、とか。考えて、考えても想いは纏まらない。何を悩む事があるのか、と己を叱咤しながらも、どうしようもない衝動に息が詰まる。
 未だ明けずに暗いその空には、薄い雲がかかっている。鳥の囀りが遠く聴こえ、空の端は紅い。色を帯び始めた世界を見詰めながら、暗殺者は深い深い息を吐いて、其の侭静かに眸を閉じた。

 ジェムストーンや調味料。その他諸々の消耗品を調達する為に、魔術師は朝早くに拠点を発った。無論それは相方……に近しい彼にも伝える事は無く、独断にて彼は街へと向かった。
「…………」
 それから数刻、陽は高い。陽射しもそろそろとその手を木々の合間へ伸ばし始め、肌を晒していればじりじりと焼けはじめる、そんな頃合だ。正午に近く、腹の虫もぐうと主張をしてもおかしくはない。
 そして、大樹の木陰。そんな時間であるというのに、眠り過ごすひとつの姿があった。
 魔術師は、それを瞠目して見ていた。夜色の艶やかな髪、猫のようにしなやかな肢体。それを紫苑の装束で身を包み、樹に背を預けて眠る姿。それは、間違いなく同居人――という言い方には語弊があるが――の姿であったから。
 暗殺者は、彼の前で眠った事など今の今まで一度たりとも無かった。警戒心の強い獣のような彼だから仕方あるまい。……そう、思っていたのに。それが、どうだろう。無防備にも真昼に近いこの時間まで、暗殺者は眠りこけていた。いつもならば、それは自身と全く逆の姿で。彼が眠る姿など見たことも無かったし、当たり前、とも思っていたのだ。
 黒い髪は片目へと垂れ、その瞼を蔽っている。晒されているそのもう片方の瞼を縁取る睫毛は長く、未だ幼ささえ感じられる初心さがある。木陰に浸る肌は白く、触れればきっと、陶器のようになめらかで、冷えているのだろう。そのコントラストが胸をひどく打って、彼は言葉を失って、目前の相手を見詰めた。
 手を伸ばすには憚られるのに、でも、放って置くには惜しいとさえ感じる。美しく気高いその獣は伏せた睫毛を呼吸と共に僅かに揺らしながら、生きているのかどうかを疑うような細い息を繰り返している。
「……どういうことだ、何が在った」
 自身の、僅かに痛みさえするこめかみを押さえて考える。とくとくと脈打つそのリズムに合わせて深呼吸を繰り返せども、全く理由が攫めない。
 ――体調でも悪いのか?
 思い付いたのは、至極真っ当な考えだった。見た目では普段通り変わらぬ状態だが、若しかしたら熱でもあるのかも知れない。野宿暮らしに慣れていないとは思えないが、普段と慣れない相手と生活をしていれば、風邪のひとつもひくだろう。
 買い込んだ荷物を適当に放れば、魔術師は未だ眠りに沈んだ侭の暗殺者へと歩みを進めた。その傍にしゃがみ込んでも相手は何の反応も無く、眠りこけている。その状態がひどく異常だと感じながら、その額にてのひらを合わせようとして――はたとグローブを嵌めた己の手を見止めた。魔術師のグローブは職業柄耐熱、耐水を兼ね揃えたものだ。それなりに厚みを伴うものであるから、人の体温など感知出来る筈もない。魔術師はグローブを外し去って改めて、その暗殺者の額にてのひらを宛がった。
 ひやり、とした感触。己もそう体温が高い訳では無いが、それに輪を掛けて体温が低い。まるで水か何かに触れたようなその感覚に、思わず瞬いた。ひとに触れるというのは不思議なもので、触れた先から相手と、己の熱が雑じり、融け合う。熱を奪い、熱を与え合い、等しくなろうとするその互いの熱。閉じられた暗殺者の目蓋が、僅かにその淡い熱に揺れ、――そうして、ゆっくりとその眸が顕れた。

 別に、間違いでも何でもない。在るべき関係に、在るべき状態に戻っただけだ。今迄の状態が異常で、不可解だっただけ。本来ならば全く別々の位置で暮らし、過ごし、生き、死んでゆく筈の二人が、ちょっとした拍子に交わってしまっただけ。
 視界の定位置に彼が居ないのも、口煩い文句がないのも、日々耳にしていた寝息が無いのも、全ては、それが正常。目蓋の裏にふと浮かぶ姿が在るなんて、それは、異常。
 ――そう、言い聞かせたのだったのに。
 夢に堕ち眠りを貪るその先に、己よりも幾分か高い熱が、触れた。今迄触れた事なんて無かった、熱。人を殺すのは、己の指先ではない。刃が穿ち、感じるのは血の生ぬるさだけ。そんな、生活をしていたのに。
「……大丈夫か」
 瞬くように美しい銀糸。安堵の色に眇められているボトルグリーンの眸。整った顔立ちは普段とは異なり、とてもやわらいでいて。――いつもならば、手など届かぬ位置に在る筈の彼が、目の前に、いた。その彼の掌は己の額に宛がわれていて、そもそもその接近に気付かぬ程眠り扱けていたという自体が異常だ。その掌の持つ熱は、強い。生身の生きている人間だ、と実感させるようなそれに、眩暈さえ感じた。
「な、貴様、――……」
 脳裏には、陳腐な言葉しか出て来ない。舌は縺れ、喉は掠れ、動悸さえする。
「心配させるな。買い物から帰って観れば君はこんな時間になる迄眠っているし、何か在ったのかと思っただろう」
 掌を退けてやれやれ、と肩を竦める魔術師の後方を見てみれば、そこには紙袋の山。それから覗くものには色取り取りの魔力石や、果実に野菜など、生活用品の品々が紛れている。
 暗殺者は胸中に、何とも言えない感情が浮かんだ、と感じた。胸に痞えたものが落ちてゆくような、気分がやわらいで、息を吐くような。――彼は、この感情の意味を知らない。けれど、ひどくそれがあたたかいものなのだと、それだけは理解して。
「それとも何かい。私がいなくて寂しかった、とか――」
 魔術師のその軽い戯言に、暗殺者はその夜色の眸を瞠目した。
 ’寂しい’……?
 そんな感情、彼は知らない。無駄な感情など何一つ、教わっていないのだ。そんな、知る筈も無い感情を、己が抱く筈もない。そう、彼は結論を以て、今迄生きて来たのだから。
「……知らん」
 ぶっきらぼうに一言だけ暗殺者は返して、再び樹幹に背を預けた。暗に魔術師に早く離れろ、と言っているに違いない訳ではあるが。けれど、魔術師は動かなかった。戯言を問うた其の侭に、先程迄の暗殺者と同じくしてそのグリーンの眸を見開いている。
 そうして、紡いだ言葉はひとつ。
「何だ、君は可愛いな」
「――!?」
 呆けたように魔術師が呟いたのと、暗殺者が即座にその場から跳んだのは同時。
 魔術師が次の言葉を返す間もなく、あっという間に暗殺者は紫苑の裾を翻し、森の奥へと駆け抜けていった。
「…………如何したものか」
 その疾風のように木々に紛れて去っていった紫苑の陰を見送りながら、魔術師は笑いながら頭を掻いて。散らばった紙袋の中身を取り上げながら、彼は堪え切れぬ笑いをくつくつと漏らして肩を揺らした。

 ――忍ぶように帰って来た暗殺者を、魔術師が初めて彼へと作った料理が迎えるのは、もう暫く後の話。



fin




>熱が伝わる>BlueDays

 wizアサです。やっとこさ!

 お互いに漸く気付き始めた模様。愛ですね、愛!(メイビー)
 鈍さはどちらも五十歩百歩。頑張れ青い日々。

 2005/0831 さわけい